「祝婚歌」

「祝婚歌」 吉野弘

二人が睦まじくいるためには
愚かであるほうがいい
立派すぎないほうがいい

立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい

二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで 疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい

立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい

健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい

そして  なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

先日、会話の中で出てきた
吉野弘さんの祝婚歌。
そう言えばそんな詩があったなと
久しぶりに読み返し見てみたら
改めて、とても素晴らしい内容でした。

夫婦はもちろんのこと
友人であれ、親子であれ、師弟であれ、
上司部下であれ、人間関係は全て
こういう形であれたら幸せですね。

そんなこと思った秋の日です。

「あべこべに群れるから無力」

とある本を読んでいたら
ルポライター竹中労さんのこんな言葉が
紹介されていました。

不意を突かれつつも
妙に納得、胸に沁みたのでご紹介。

「人は無力だから群れるのではない。
あべこべに群れるから無力なのだ。」
(竹中労)

この竹中さんの考えは、
昔聞いてぐうの音もでなかった言葉、
「努力しても成果がでないのは
間違ったやり方でやっているから」に
とてもニュアンスが似ていると思いました。

我慢したり苦労したりすることを
努力だと勘違いしていた私。

それって成果がでなくても
これだけ辛い思いをしているんだから
自分は頑張っているでしょ?
仕方がないでしょう?と

やってる最中から言い訳がましく
自分を正当化していただけの
カッコ悪い自分を鏡に映して
気づかされた時を思い出しました。

努力って行為は、
ガムシャラに何かしたらいいのではなく、
自分なりにこうやったいいかなと考え
やりながらどうやったらうまくいくのかと
試行錯誤していくことが大事。

ノープランでただやってみても
なかなかうまく行かないし成果はでない。
あべこべにやっても仕方がない。
そして結局うまくいかないことの繰り返し。

きちんと考えて行動に移し
そこで修正しながら成果を出せるように
色々とやり続けていくことが大事ですよね。

改めて自分に「喝」を入れてもらった
そんな気づきの言葉でした。

パクったものをいかに自分のモノに仕立てて人前で出すか・・

お笑いなんて誰かに教わるようなモンじゃない。
最初から全部お笑いがわかっていて、
なんでも出来ちゃう天才なんていないもん。

笑いの神なんて言われる芸人だって、
最初は誰かのパクリ。
面白いヤツを見て、
「この人、面白いな・・・。」
「こういうのを俺もやってみたいなァ」
憧れからその人の芸や漫才をパクって真似して
自分のモノにしていくわけ。

パクったモノをいかに自分のモノに仕立てて 
人前で出すか・・・  それがお笑いよ。


漫才コンビ おぼんこぼん さんの本
「東京漫才」の読み始めに書いてあった
おぼんさんの言葉。
開始早々、胸に刺さってきました(笑)。

今までに読んだ本に書いてあったり
誰かに教えてもらった知識を
より具体的にその人の言葉で触れた時に
胸の中で大きく刺激を受けます。

これってジェームスWヤングさんが
書いた有名な本「アイデアのつくり方」に
書かれている言葉
「アイデアとは既存の要素の
新しい組み合わせ以外の何ものでもない。」
これの具体的な話に他ならないわけです。

その道を極めようと精進している人や
実際に挑戦して経験を積んでいる人、
成果を出されている人の言葉って
本当、わかりやすくて沁みてきます。

スポーツ選手であれ、実業家であれ、
芸術家であれ、歌手であれ、芸人であれ
その道を極めた人や
極めようとしている人から
滲み出てくる言葉は
本当、素晴らしい気づきを与えてくれます。

ここ数日は半身浴しながら
オール巨人さんの漫才論を読んでいますが、
次は作詞家 阿久悠さんの本を読んで
ゴツゴツと刺激を受けようと
一人で企んでいる5月の終わりです。

「おめでとう」って綺麗に言える大切さ

我が家には、中1と小5の娘が二人います。
まだまだ子育てに追われていて
あーだこーだと叱ったり、誉めたみたりと
慌ただしい毎日だったりします(笑)。
先日、ハッと気づいたことがあったのでお話。

子育ての方針のような
大げさなものでもありませんが、
娘達に言い続けていることが幾つかあります。

その一つが
「ありがとう」と「ごめんなさい」が
綺麗に言える人になりなさいというもの。

「ありがとう」って言葉はそもそも
自分に得があるというか、メリットというか
何かをしてもらえた時に言う言葉なので
こっちがどうこう言わなくても言えるはずが、

「ごめんなさい。」って言葉は
案外、すぐ言うのって難しい。
先に言ったら負けと考える人も多く
言い訳ばっかり先に来て
綺麗に言える人は大人でも少なかったりします。

(世の中の感情論って
一言、ごめんって先に言えてたら
こじれることは、ほとんど無いのでは?
と いつも思っています。

ちなみに我が家では
「悪気がないのが一番悪い」とも教えてます。

「そんなつもりはなかった」と
自分は悪くなかった言い訳する人多いですが、
悪気なく人を傷つけること自体、最悪。
イジメなんかはこれが一番ダメ。
まず反省する気がない言い訳にしか見えない。

悪いと知っててイジメたのなら
まだ直せるかもしれないけれど
悪いとすら思ってなかったのなら
それは直すること自体、難しいですから
悪気がないのは一番ダメだと思っています。

まずは悪いことは悪いと
素直に認める気持ちを持ちたいです。)

世の中はコミュ二ケーション力が大切、
愛される力が大切など言っていますが、
それより先にまずは「ありがとう」と
「ごめんなさい」がきちんと言えることが
円滑な人間関係の前提。
娘達にはずっとそう言い続けていました。

そんな中、先日のとある会話の中で
ハッとしたことがありました。

それはパートナーや
友人なら尚のことですが、
自分の周りの人に何かいい事があった時に
「おめでとう」って
すぐ言えることも実は大切だなと
改めて気づかされた出来事があったのです。

「ありがとう」や「ごめんなさい」を
綺麗に言えることはもちろん大切だけど
誰かにいい事があったり、
誰かが努力が報われたり、
誰かが試験に合格したときに
「おめでとう」って
綺麗に言えることも同じくらい大切。

とても素敵な事だなとその時に実感し、
改めて娘たちも教えたいと思いました。

で、娘たちに後日そのことを言う
タイミングを見計らってたのですが、
見てたらその時に娘たちがお互い
自然に「おめでとう。」って
言い合ってたんですよね。

思い返せばこんなシーン、
今までもよく見かけていた事に気づきました。

親馬鹿ですけど(笑)、何か嬉しくなりました。

逆に、今まで当たり前のように
「おめでとう」って言えてる娘達を
誉めてはいなかったなと反省した次第(苦笑)。

それから2倍誉めるようにして
今までの分を補おうと心がけています♪

ハワイの言い伝え「ホ・オポノポノ」は
「ありがとう」「ごめんなさい」
「許してね」「愛してる」と言うことで
自分の気持ちを浄化して
新たに取り組む気持ちを整えるもの。

我が家はその4つの言葉に
「おめでとう」って言葉を足して
家族で大事にしたいと思っています。

「出会いも才能のひとつ」

何気に暮らしていても
交通事故の如く新しい刺激や気づきに
出会うことがあります。

それは時には人であったり
それは時には景色であったり
それは時には音楽だったり・・・
そんな感じで先日、この言葉に出会いました。

「出会いも才能のひとつ」

この言葉が凄い心に刺さりました。

出会いは偶然でしかないようで
実はそうではないんですよね。

変わり映えのない毎日を
いつもと同じメンバーで過ごしたほうが
気楽で居心地はいいけれど
刺激や気づきが少ない人生になります。

新しい何かを知ろうと日々心掛けていないと
部屋に籠ってばかりになります。

出会いなんて無意味と思う人が
刺激も気づきもなく成長できない人。

出会えることは日々の心がけ次第で
いくらでも自分のものとしていける。
それならば、やっぱり才能の一つなんだと
改めて思える機会になりました。

昔、ご縁あった人にこんなハガキを書いて
翌日投函していたことを思い出しました。

縁とは偶然な必然を言います
あなたさまと出逢えたこと心から感謝します

すっかりそんなハガキを送ってたこと
忘れてしまってたな・・・と反省。

これからも素晴らしき偶然な必然に
たくさん出会えるように
日々謙虚かつ丁寧に過ごしていきます。

雨ニモマケズ・・・

誰もが知る詩なので、
改めて紹介するのも何ですが、
宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」は
今でも年に何度か読む機会を作り、
読むほどにいろんなことを思います。

分かりやすく読みやすく書くと
以下のような形になります。

「雨にも負けず」  宮沢賢治

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して瞋からず
何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい

やりたいことを我慢して
謙虚に生きることがいいことだとか
奉仕の精神がいいことだと
誰かに押し付ける気もありませんが、

成功するとか
金持ちになるとかと言うよりかは
やりたいこと、やらなければいけないことに
チャレンジはちゃんとしてきた人生を送り、

挑戦したことで悔いを残さず
最後は納得して穏やかに過ごせる人生に
年々、憧れている自分がいますね。

とは言え、欲深く煩悩にまみれた
まだまだ修行中の身ですが(苦笑)、
この理想と現実のギャップを知る気づきとして
この詩は今でも繰り返し触れる機会の一つ。

詩でも 曲でも 映画でも 本でも
いつでも自分を再認識できるものに
出逢いたいと心がけています。

本日は11月15日、
子どもにとっての節目の日である七五三。
そんな日だからか、こんなことを思いました。

「志を得ざれば再び此地を踏まず」

朝晩涼しくなって過ごしやすくなりました。
このまま秋になっていくのでしょうか?
暑い夏はイヤですが、
夏が終わるっていうのも寂しいですね。

先日、野口英世さんのことを
深く知る機会がありました。

医術開業試験受験の為、19歳で
上京するときに生家の床柱に
医師になる決意を刻みました。

「志を得ざれば再び此地を踏まず」

医師にならない限り、故郷には帰ってこない。

19歳でそこまでの覚悟と決意を持ったこと。
驚くとともに感心してしまいました。

このような偉人と自分を比べること自体、
おかしいのかもしれませんが、
私のような50歳前の凡人でも
まだ覚悟を決めて決意する機会があるでしょう。

その時には私も決断できる勇気は
持っていたいと思った夏の終わりです。

追伸

野口英世さんは19歳で上京、
21歳で医師資格を取り、24歳で渡米。
39歳の時、2か月だけ帰国するも
そのまま日本に帰ることなく、
51歳の時、黄熱病で亡くなられました。

36歳の時にお母さんからの手紙が
届くのですが、この手紙読んだら
涙がこぼれてきました。

何回も「はやくきてくたされ」と
書いてあります。

「早く帰ってきて。」
「いつ帰れるか教えて。」
我が子を待つ母親の気持ちが
全体から滲み出ています。

若い頃なら息子目線で読んで
そんな風に思うのかなと感じたでしょうが、
今は、お母さん側の目線になりますから
読んでて同じような気持ちになりました。

「親孝行したいとき親はなし。」
親孝行できてるかと自問自答して
何もできてないように思いました。

来週は敬老の日。
時間作って家族で、
母親に会いにいきたいと思います。

正しいことをいうときは・・・・

本を読んでいても
詩を読んでいても
曲を聴いていても
映画を観ていても
時に胸をグッとつかまれるような言葉に
出逢うことがあります。

例えば、大学生の頃に
桑田佳祐さんの曲を聴いてて
「粋で優しい馬鹿でいろ」って言葉に
初めて触れた時、衝撃を受けた感じ。

例えば、30歳くらいの頃に
茨木のり子さんの詩
「自分の感受性くらい」を読んで、
カッコ悪い自分にハッて気づいたとき。

例えば、37歳で次女を授かった時、
様々なリスクを考えて産むか産まないか
奥さんと悩んでた時に、
産婦人科の先生に
「産まれてこようとするお子さんのこと
信じてやってもらえないですか?」って
言われたあの瞬間。

生きてたら本当、胸を鷲掴みされるような
出会いがしらに ぶつかるような
そんな言葉に出逢えることがあります。

先日、吉野弘さんの詩を読んで
ハッと気づかされる言葉に出逢いました。

「祝婚歌」
吉野さんが姪夫婦に贈った詩。
これから一緒に暮らしていく2人に
こうあったほうがいいと語っていく内容。

その中にこんな言葉がありました。

「正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい」

なんか胸の中でモヤモヤしてたことが
なんかスッキリしました。

時として人は、正論であればあるほど
高圧的に上から目線で語りがちです。

自分は正しい。
自分が正義なのだから
間違ってる相手は傷ついて構わない。

そんな考えで
誰かに攻撃され傷ついたことも
誰かを攻撃して傷つけたことも
思いあたることはあるはずです。

正しいことを言うときに
相手を傷つけるものだと気づいていたら
もっと言葉を選んで
もっと建設的な話ができたよなと
詩を読んだ瞬間にいっぱい頭をよぎりました。

パワハラもモラハラも
根っこはこんなことかもしれません。

正しいことであればあるほど
言い方を間違えたら相手には
一生、伝わらなくなってしまうことも
たくさんあるのではないでしょうか?

本当はそんな結末なんて
誰も望んでいるわけではないのに、
本当はそのことが正しいことを
お互いが分かっているはずなのに、
言い方を間違えただけで
言った方は相手を馬鹿にして、
言われた方は相手を恨んで、
ただ後味が悪いだけ。

親子や夫婦、親しい友人あればあるほど
取返しのつかなくなるときって
もしかしたら内容がどうではなく
言い方がまずかっただけなことが
いっぱいあるように思います。

「それを言っちゃおしまいよ。」でなく
「そんな言い方したらおしまいよ。」
って感じかな(苦笑)。

言い方はどうでもいいんだ。
正しいことは正しいと
受け入れられないといけないんだと
言ってくる人はいるでしょう。

それも正しい考えなのかもしれませんが
それで相手に伝わらなかったときに
相手が悪いと責めるのなら
正しいこと言ってたとしても
その人は嫌われても仕方ないですよね。

なのに、なんで嫌うんだ?と言われても
それはいかがなものか?と思います。
どっちやねん!っていうほうがいいかな。

祝婚歌の最後はこんな言葉で終わります。
夫婦間であれ、友人間であれ
こんな関係でいれるように
相手に敬意をもって生きたいですね。

そんなことを思わされる
素敵な詩との出逢いでした。
いい機会でした。

「健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい

そしてなぜ胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには
わかるのであってほしい」

伊達政宗の「五常訓」

梅雨明けしました。
しばらくは暑い毎日が続きそうです。
コロナも心配ですが、
熱中症や日射病にも気をつけていきましょう。

伊達政宗の「五常訓」ってご存じですか?

これがなかなかうまくまとまった文で
戦国時代を生きぬくことはもちろん、
我々の日々の生活の中でも
ハッとするヒントになりますね。

いろいろありますが、
要は、何事もバランスが大事と
いったことを教えてくれます。

「伊達政宗五常訓」

仁に過ぎれば弱くなる。
義に過ぎれば固くなる。
礼に過ぎれば諂(へつらい)となる。
知に過ぎれば嘘をつく。
信に過ぎれば損をする。

気ながく心穏やかにして、
よろずに倹約を用い金を備うべし。
倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、
この世に客に来たと思えば何の苦労もなし。

朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。
元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。
今日の行くを送り、
子孫兄弟によく挨拶して、
娑婆の御暇申するがよし。

【意訳】
相手を優しくしすぎたら
自分が弱くなってしまう。
正しいことばかりに囚われては
融通がきかず柔軟な対応ができない。
礼儀正し過ぎたら、嫌味となり逆に失礼。
知識が増え賢くなると嘘つきになる。
他人を信じすぎたら損をしてしまう。

気を楽にして心を穏やかにして、
多少の不自由があっても倹約を心がける。
この世にお客さんとしてきていると思えば、
不足に思うこともないでしょう。

朝食や夕食がおいしくなくても
おいしい言って食べるように。
元々、お客さんであれば
好き嫌いを言える立場でもないですし。

そうやって生きていき、
いつかあの世へ旅立つときには
家族や子供に「ありがとう」と
ちゃんと挨拶をして旅立てばいい。

まずはなんでも「おいしい」って
言いながら食べることにしようっと・・。

漁師は漁に出られない時は網を繕う。

コロナ緊急事態宣言も解除となり、
週開けの6月1日から多くのお店が
再開するようですね。よかった。
このまま街の活気も戻ってほしいです。

この2か月間は身動きも出来ず
停滞したような時期でした。

英気を養う機会にされた人もいたでしょうし、
新しいことにチャレンジする準備の人も
多くいたのではないでしょうか?

身動きできずに
立ち止まったままの人も多くいましたが、
このピンチをチャンスとばかりに
精力的に動いていた人も多く存在していて
人それぞれ、物は取りようだなと思いました。

私はここぞとばかりに
ただひたすら読書をしてました。
読書と言うか勉強ですね。

改めて昔からいろいろ言い続かれている
理論や考え方が書かれた本を読み、
ノートにまとめ、一人でアウトプットして、
それをまたノートにまとめるといった
受験生ばりの日々(笑)。

30年前にこれくらい勉強していたら
あの当時の「関関同立」は無理でも
「産近甲龍」は行けてたのではないか?と
思わせる「摂神追桃」ランクの私です(笑)。
(関西エリアの40代のみ笑ってください♪)

自分自身改めていろんなことが
インプットできて貴重な機会となりました。
6月から心機一転、再スタート頑張ります。

そんな折、先日インターネットで
編み物作家の三國万里子さんのお話を見かけ
なるほどな~と感心したのでご紹介します。

コロナ自粛の2か月間こそ、まさに
「漁師は漁に出られない時は網を繕う」
この時期だったのではないでしょうか?

もちろん、今まで追いつめられるかの如く
がむしゃらに働き続けてた人にとっては
心身共に休息の機会であったのなら
それもいい機会だったと思います。

ただ私にとっては
「刃を研ぐ」時間になったので
振り返れば、何よりありがたい時期でした。

昔、読んで心に残った本も読み返しました。
昔、あまりにピンとこなかった内容も
今となれば腑に落ちた本も読み直せました。

何より、新しい本もいっぱい読めて
いろんなことが頭の中で整理できて
本当によかったです。
(この2か月間、本屋さんには
3回ほど行きました。すみません・・・・。)

自粛期間も奥さんは普通に仕事でしたので
炊事、洗濯、掃除はほぼ私が担当。
小学生の娘達の勉強みたり、
なんだかんだとお世話もしました。
家事は9時までに全て終わらせて
仕事と勉強する、そんな毎日でした。

(今なら子育て世代で共働きの奥様の
悩みや不満、ご要望などに共感しつつ
家づくりにおいても一層、
的確なアドバイスできるかと思います(笑)。)

来春には中学生になる長女。
年頃になり、反抗期も迎えるでしょうから、
これからは父と娘であるが故、
距離も日増しに開いてくるでしょう。

大きくなったのだから仕方ないですが、
父親としてちょっと寂しい気もします。

でも、そんな娘と最後?かもしれない
ベッタリとする機会だったのなら、
最高の想い出づくりだったと同時に、
いろんなことを学んだり、
改めて考え直すチャンスだったわけで、
私にとっても、三國さんのように
これからの自分を作るときだったんだと
感謝するのでありました。