そこに愛はあるのかい?

半年ほど前から
蕁麻疹に悩まされています。

唇に症状が出ると、倍くらい腫れます。
サザエさんに出てくる
アナゴさんみたいになります(笑)。

皮膚科で飲み薬をもらっているのですが、
原因もよくわからないので仕方ないですね。
ちなみに今日はアナゴさんです♪

で、タイトルは昔懐かしいドラマ
「ひとつ屋根の下」より引用しました。

「そこに愛はあるのかい?」

音楽好きなので、考え込まない作業中や
夜、一人で酒を飲んでるときは
youtubeを見ることが多いです。

いろんな音楽を聴いていると
オリジナルはもちろんのこと、
とても素晴らしいカバー曲があります。

そのカバー曲はそもそもの楽曲の良さや
カバーしている人の歌のうまさもありますが、
胸に響くときは前提に
やっぱり歌い手さんがその曲自体に
「愛」があるかないかが大きいように思います。

そのカバーの選曲は、
事務所の社長がしたのかもしれませんし、
周りの誰かが勧めたのかもしれません。

この曲はノリがいいからとか、
この曲は名曲だからとか、
この曲なら売れるからといった
そんな思いがきっかけかもしれません。

例えば、カバーするきっかけが
他人だったとしてもいいんです。

でもカバーする歌手本人には、
カバー曲が大好きであって欲しい、
その曲自体に「愛」があってほしいと思います。

「たいして好きでも何でもないんだろうな。」
「この曲なら売れるだろうからまぁいいか。」
みたいなことを感じてしまうと
どれだけその曲自体がいい曲でも
聴いているほうは冷めてきます。

「趣味」とか「遊び」ならそうでなくでも
こっちが本気になる「仕事」や「買い物」なら
なおさらそう感じるではないでしょうか?

「これを売ったら儲かるから」とか
「これなら片手間でやれるから」とか
そんな気持ちの相手とは
例えそれが見た目、いいもののように感じても
さみしいような気がします。

売る側になったら、人間そう思いがちです。
楽して売りたい、楽して儲けたい。

でも買う側になったら人間なんて勝手なもの。
そうだったとしても
やっぱりそこには
「愛」があってほしいと願うわけです。

ちなみにこの曲のカバーは本当素晴らしい。
最近、1日に1回は聴いています。

楽曲そのものの素晴らしさ、
奥田民生さんの胸にくる歌声、
故、忌野清志郎さんへの敬意なども
すべて感じられますが、
何より民生さんのこの曲に対する「愛」が
最初から最後まで響き渡っています。

やっぱり、カバーに限らず、
暑苦しいとか思われても
本気なことって、
こうじゃないといけないですね。

「そこに愛はあるのかい?」

仕事のこと、家族のこと、友人のこと。

私の大好きな自問自答しながら(笑)
今晩は、この曲を聴きつつ
芋焼酎でも呑もうかと思案中。

ただ、この曲聴いてたら
何杯でも呑めるんよな・・・。
困った、困った♪

上司の義務、親の義務

6月になりましたね。
久々の更新です。
10連休の影響もあり、
GW明けから仕事、仕事、仕事・・・
そして、子ども会&地域行事(笑)と
予定が立て込んでいました。

そんな中、時間が取れたので
出張先でブログを書こうとしたら
まさかのパソコン故障(笑)。

姫路に帰ってから直しに行くも
修復不可のため新PC購入→データ移動、
復活したのは壊れてたら1週間後。

急ぎの仕事でてんてこまい。
今日、やっとブログが書けます。

そんな慌ただしい5月でしたが、
昔、地元でお世話になった方と
食事をする機会が1日ありました。

お会いするのは2~3年ぶり?
久々の再会に話もいろいろ弾みました。

40代半ばも過ぎると
自分の人生もですが、
会社での部下育成や家での子育てに
いろんな悩みやいろんな心配がでてきて
悩める子羊のごとく、
あーだこーだと会話は続いたのであります。

会話の中でいろいろ思うこともあり、
家に帰ってからこういったときに
よく読み返すノートを読んでました。

このノートは15年くらい前に参加した
とある研修でまとめたノート。
濃密な5日間の中に書き留めた
言葉の数々であふれています。

私にとっては宝物の一つ。

何年経っても何か思うときに
読み返すことがあります。

久々に読み返していると
ノートにこんな言葉が書いてありました。

「叱るのは上司の権利、誉めるのは上司の義務」


モヤモヤしていた曇り空な気分が
パッと晴れ渡るような感じになりました。

本当、この通りと思います。
子育てでも一緒ですよね。
「叱るのは親の権利、誉めるのは親の義務」

そういえば、私がよくいう言葉に
「馬鹿親はダメだけど、親馬鹿は親の義務」
ってのがあり、似てますよね?

担任の先生にも
「悪いことしたら遠慮なく叱ってください。
でも良いことしたら誉めてやってください。」
って家庭訪問のとき毎年言ってるな・・・

そんなこと思い出しました。

早速、その人にもメールで伝えて
おっさん2人、スッキリしたので
ぐっすり寝たのでありました(笑)。

本やノートを読み返すたびに
いつも改めて気づく自分がいます。

1回読んだら覚えとけよ!ってな話ですが、
そこまで優秀ではなさそうなので、
そんな「言葉」を持っておくことと
読み返す「機会」を設けておくことは
心がけておこうと思った森下でした。

「見捨てない」ということ

今日は5月10日。
我が夫婦の結婚記念日です。
11年経ちました。
あっという間の11年でした。

この1年も奥さんの尻に敷かれて
日々平和に過ごしていきたいと思います。

さて、そんなおめでたい今日ですが
朝から我が家は騒がしかったです。

というのも、最近、小5の長女が
悪知恵が働くようになったのか
要領よく手を抜く術を覚えたのか
やらないといけないことをやらずに
ごまかしていることが目につき始めました。

これはこれで成長していることなので
まぁいいかと思う気持ちもありますが、
だからいって親としてそれを
見過ごすわけにもいかないわけで
なんだかんだ叱っちゃいます。

第一子にありがちな
真面目でいい子ちゃんと思ってましたが、
要は普通の子でした(笑)。

でも、実際いい子すぎるのも困りもの。
いい子すぎる子は成長していく中で
時として困ったちゃんになることが多いので
逆に安心したのも親の本音です。

あんまり叱りたくもないのですが、
ここ数日同じことが続いているので
叱らざるをえない状態。

私は外面がいいのか(笑)、
前職時代のお客様の奥さんが私に言ったり、
また、子どもの友達のお母さんたちが
うちの奥さんに私のことを
「いつもニコニコしてて、ご主人は
お子さんを怒ったりするんですか?」と
言われるようですが、
ご期待に沿えず申し訳ありませんが
すみません、しっかり叱ります。

しかも、怖いくらいに(笑)。
(娘達は父ちゃんは
世界で一番優しいけど、
世界で一番怖いとも思っているようです。)

でも、自分の自己満足、やつあたりに
ならないように怒らずに
子どもの成長を願って
しっかり叱るようには気をつけてます。

叱るときは感情的にならず
冷静に諭すようにつめていくので
娘達もイヤでしょうが(笑)、
同じことを毎日叱り続けないといけないのも
こっちもあんまり
気分がいいものではありません。

でも、これって
子どものことを思えばの行動であり、
我が子のことを思えば
面倒くさくても言い続けれるわけです。

もうこんな奴いいやと見限っていいのなら
楽チンなわけです。

子育てや家事って大変って言いますが、
それは早起きしてご飯を作ることとか
毎日洗濯をするといった行動が
大変と思いがちですが、
じつはそうではなく、
相手を見捨てないと言うことが大変なんだなと
最近、改めて思うのです。

学校の先生も
部活のコーチも
会社の上司もみんな一緒ですよね。

もうこの子の成長は諦めよう。
面倒くさいからと辞めていいものなら
実はたいして大変でもなかったりします。

それがどんな相手でも
いくら言うことを聞かない相手でも
言い訳ばっかりしてている相手でも
見捨てずに相手をし続けないと
いけないから大変なわけです。

そう思ったら見捨てるこということは
本当の指導ではないわけで、
相手のわがままを安請け合いして
見過ごしていくことも
指導者としていかがなものか?と
思わざるを得ないわけです。

大人の世界では
度を過ぎればその相手を見限ることも
周りの人への影響を含めても
仕方がないことですが、

未熟な相手、
それが子どもや新人相手なら大人は
見捨てることは決してしてはいけない、
安易に相手を未熟さを受けてはいけない、
勇気をもって怒らず叱っていく。

真剣に相手に言い続けられないのなら
やっぱりこっちも上から目線で
偉そうには言ってはいけないわけです。

ちなみに娘達は小学生ですが、
まだ子どもだからと言って
簡単にスルーはしないのが我が家の方針です。

場の空気を読めずに騒がしくしていても
それが子どもだから仕方ないと
許したことはありません。
そもそも騒いだこともなかったですが・・・。

子どもだからといって仕方がないよと
したり顔で甘やかし、許してしまったから
騒いでも子どもは許されるんだと学習して
言うことを聞かなくなったわけです。

そして、そんな子どもが大人になったときも
そのことがいけないことでも
叱られたこともなけりゃ
怒られたこともないから
20歳を越えてもルールが守れないコトナ
<大人の見た目で中身が子どものこと。
by前田日明(笑)>になってると思います。

そして、それを本人も悪いと思ってないから
タチが悪いわけです。

これに似た話が以前、
ダウンタウン松本氏が言われてた
「新幹線で子供がうるさい。
子供に罪は無し。
親のおろおろ感なしに罪あり。」
ってコメントですね。

もし、我が子が
後輩が、教え子が、部下が
いくら言ってもできなくても
よっぽど致命的なモンスターでなければ
その相手を見捨ててしまっては、
自身の値打ちも下がってしまいます。

だから教育、指導、育てることって
本当に大変なわけで、
責任を持って言い続けること、
見捨てないことが
親、先生、上司の大事な業務なわけです。

ちなみに私は娘を叱るときはもちろん、
いつも言ってる台詞があります。

「父ちゃんのことをうるさいなと
嫌うならどうぞ嫌ってください。
こんな奴、嫌いと思ったのなら
どうぞいつでも嫌ってください。

父ちゃんは嫌われても全然OK!

父ちゃんの願いは、智美と志保に
自立した素敵な女性になってほしいこと。

そんな女性になってくれたら
父ちゃんは本望です。
だから、大人になるまではいつまでも
あなた達に悪いことは悪いと
言い続けます。
でも、いいことしたときは全力で
いいことしたねと誉めます。

あれ?いいことしたのに
父ちゃん、全然誉めてくれないなと思ったら
いつでも言ってきてください。」

こっちも真剣だから娘も真剣に聞いてます。

二人が素敵な女性になってくれて
大人になったとき、
一緒にお酒が呑みにいけたらなというのが
私の父親としての最大の願い!

そのためにもいつまでも見捨てない
真剣の父親であり続けたいと思っています。

明智光秀を知り、いろいろと考える・・・・

令和になって1週間が経ちました。
皆さんはどんな連休を過ごされましたか?

我が家は、なぜかこの連休に
ジャッキーチェンの映画「香港国際警察」を
part1~part3まで家族で観ました。

いつ観てもジャッキーはスゴイですね。
小学校1年生のときに酔拳を観て以来、
私のアイドルの一人です。

さて、このGWは
10連休とはなりませんでしたが、
結構、休ませてもらいました。

1泊2日ですが、平成最後に
滋賀県へ家族旅行に・・・

彦根城や多賀大社、信長の館、
近江八幡、比叡山延暦寺、
近江神宮に琵琶湖ミシガンと
強行スケジュールで観光してきました。
延暦寺はメインの根本中堂が改修中で
しかも雨で大変でしたが(笑)。

最近、百人一首に興味を持ちだした娘達は、
百人一首の聖地、近江神宮では
かなりテンションが上がり気味。

そんな旅行をしたこともあり、
帰ってきてから家族そろって
歴史の漫画をただ読みまくると
いった展開に(笑)。
あっ、百人一首も娘達は
やっていましたが、父ちゃんは爆睡・・・

今回、近江や安土を観光したので
読んだ歴史の漫画も
信長や秀吉、家康、石田三成や
明智光秀といった武将を読みました。

読んでみたら敗者の立ち位置の
三成や光秀がとても優秀で魅力的な
人物であり驚きました。

勝てば官軍。
成功者の言葉しか残らないから
見過ごされますが、
どんな時代でも集団のトップに立った人で
あるなら魅力的な人だったとしても
不思議ではありません。

特に明智光秀が魅力的な人であることを
知れてとてもいい機会でした。

この漫画の台詞を借りたら
光秀はこんな風に紹介されていました。

戦上手とたたえられ
戦国の世を渡り歩いた男

妻と子をこよなく愛し
家臣を大切にした男

領地に善政を敷き
民に慕われた男

比類なき武将 信長に
最も信頼された男

そして
信長を裏切った男・・・・

(朝日新聞出版「マンガ日本史」より)

信長を裏切った男といった側面でしか
見ていなかったことに気づきましたが、
結構、こういうことって多いですよね。

ある側面だけで判断するのではなく、
多面的に物や人をとらえるように
心がけることが大事なわけです。

戸田智弘さんという方が書かれた
「ものの見方が変わる座右の寓話」を読むと
こんなことが書かれていました。

ある日、六人の盲人が象を触って
その正体を突きとめようとした。

一人目の盲人は象の鼻に触り、
「象とはヘビのようなものだ」と言った。

二人目の盲人は象の耳に触り、
「象とはうちわのようなものだ」と言った。

三人目の盲人は象の足に触り、
「象とは木の幹のようなものだ」と言った。

四人目の盲人は象の胴体に触り、
「象とは壁のようなものだ」と言った。

五人目の盲人は象のしっぽに触り、
「象とはロープのようなものだ」と言った。

六人目の盲人は象の牙に触り、
「象とは槍のようなものだ」と言った。

それから、六人の盲人たちは
長いこと大声で言い争い、
それぞれが自分の意見を譲らなかった。


(あくまでイメージ画像です)

傍で見てたら滑稽な話です。
でも私達も物や人の一部分だけを理解して、
それが全てだと錯覚を起こしてしまうことが
多々あるわけですから、笑えない話。

またこの話は、
真実を表現する方法が異なっているだけであり
真実が異なっているわけではありません。

誰か一人が正しくて、
他の五人が間違っているのではなく、
また全員が間違っているわけでもない。
全員が正しいからややこしいわけです。

明智光秀の話もですが、
信長の裏切り者といった側面も真実ですが、
戦上手で渡り歩いたことも、
妻や子、家臣を大切にしたことも
善政で民に慕われたことも
信長に誰よりも尽くし、信頼されたことも
すべて真実なわけです。

ある一面だけでその人のことを
こんな人だと決めつけがちになりますが、
視野を広げて多面的にとらえられるように
ならなければと思った次第です。

ちなみに京の医師、
江村専斎は光秀のことを
「実直で礼儀正しい人だった」と評してますが、
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは光秀を
「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷。
抜け目がなく、はかりごとの達人だった。」と
評していたようです。

実際、どんな人だったのでしょうか?
明智光秀の本が読みたくなりました(笑)。

「縁」とは必然な偶然を言います。

平成も今日を入れて残り3日となりました。
あっというまの30年でした。
平成になったとき私は高校生でした。
おっさんになるはずです・・・・。

昨日から10連休もスタートしました。
遊びに行く人も、ゆっくりする人も
仕事の人も様々な方がいます。
どんな形であれケガなく病気なく
穏やかな「令和」を迎えたいものです。

今年でPTA活動始めて4年目になりました。
毎年GW初日の4月最終土曜日は
総会と懇親会があります。
今年は昨日でした。

懇親会は先生方や役員さんはもちろん、
地元の自治会長さんも揃われて
結構おおがかりな会合です。
今回は司会という大役をさせてもらいました。

こういった機会は
多くの方々との出会いがありますね。
中には再会も?

今年から来られた教頭先生は
10数年前に甥っ子の担任の先生。

懇親会前に送迎バスを待ってたら
従兄弟に出会いました。

新しい役員さんが娘の保育園時代の
お友達のお母さんだったり、
聞いたお話なら今年から来られた先生が
前職時代に家を建てさせてもらった方の
お子さんだったり、
今、お世話になっている先生が
いらっしゃったりと
いろんな関係があります。

以前ではPTAの集まりで
予備校時代の友人にあったり、
当時のお客様に出会ったり、
中学校時代通ってた塾の先生が
教頭先生になられていてお逢いしたりと
本当、多くの縁があることに
ビックリします。

なにかと賛否あるPTA活動ですが、
やるからには楽しんでやりたいし、
何より我が子の学校生活がいいものに
してあげたいと思っています。
(自分がするとは全く
思っていませんでしたが・・・・(笑)。)

以前、読んだ本に
「大人になり新しい土地で
生活をしていく中では
自治会などの活動もですが、
子どものPTA活動と子ども会の活動を
通して、その地元の人間になっていける。」
といったことが書いてありました。

本当にそうだなと最近、実感しています。

そうでもないとなかなか知り合うこともなく、
こうした活動をすることで
生活しているこの場所で多くの知り合いができ
それが今の生活にとても影響を受けています。

その中にある「ご縁」を
大事にしていくことが
やがて自分の人生を大事にしていくことに
繋がるような気がします。

10数年前に
自分で勝手に作った言葉があります。

「縁とは必然な偶然を言います。
あなたさまと逢えたこと感謝します。」

「縁」を大事にして
今まで生きてきました。
令和の時代も「縁」を大事にしていきます。

どれだけ頑張っても
一人でできることなんて
たかが知れていますから、
多くの方に助けられていることに感謝して
平成の時代を個人的に終えたいと思います(笑)。

ありがとう、平成。
よろしく、令和。

プロとアマの違い

日中は、すっかり暖かくなってきました。
朝晩の温度差で
風邪を引きそうになりますが、
なんとか持ちこたえています(笑)。
季節の変わり目には体調を崩しがち、
皆様、ご自愛ください。

先日あったとあるプロ野球の試合。
試合中盤で大差があいたので
主力3選手を控え選手に
交代した采配があったようです。

中盤で試合を捨てたような采配に
「お客様に失礼」といった意見と
「戦略的に正しい」といった意見が
交わされました。

よくあるこういった展開。
意見は2つにわれますが、
皆さんはどう思われましたか?

私はこういったとき、
「お客様に失礼」といった意見は、
プロフェッショナルであり、
「戦略的に正しい」といった意見は、
アマチュアであると思っています。

これがプロ野球での話なら
「お客様に失礼」だと言わざるを得ません。
そう思うのです。

そもそもプロという言葉の意味は
「あるものごとを生計の手段として行なう人。
専門家。」です。
ちなみにアマチュアは、
「職業としてではなく、趣味として、
物事を行なう人。」という意味です。
(精通版 日本国語大辞典より)

これって興行論にもつながりますが、
報酬もなく趣味としてなら
あくまで勝ち負けにこだわるのもアリです。

しかし、プロとして報酬をもらうのなら
勝ち負けよりもきちんと儲けているのかと
いった目線は前提だと思うのです。

プロ野球の世界でよく
「優勝したから給料を上げてほしい。」とか
「3割打ったから給料上げてほしい。」とか
言う選手をよく見ますが、
それっていつもピントが外れているように
感じています。

「優勝して多くのお客様が来てくれたから
給料を上げてほしい。」
「3割打って人気が出て、自分のグッズも
たくさん売れたから給料を上げてほしい。」
といった意見なら納得できます。

なぜなら、入場料や放映料、
グッズの販売料が入るから
給料として回せる資源も生まれるわけで、
勝とうが優勝しようが
全然、お客様を呼べない選手に
支払える原資って生まれてこないわけです。

厳しい話ですけど、
それが本来のプロであるわけです。
(例えば、オリックス時代の清原選手。
選手として峠を過ぎていましたし、
成績はなかなか見込めませんでしたが、
集客力はかなりのものでした。
あの時代に5億円の価値は
なかったかもしれませんが、
あのお客様を呼べるネームバリューや
グッズ販売力には
1億円以上の価値はあったと思います。
でも、それに比例して評価が反映されることが
「野球を生計の手段として行なう人。」として
正しいのではないでしょうか?

ただ、逮捕されたことは残念です。
清原選手にはもう一度、立ち直って
復活して欲しいと願っています。)

ただ、我々の職場でもこういった話は
多くないでしょうか?

「たくさん売ったから評価して欲しい。」と
言われる営業マンは多いですけど、
本当は、たくさん利益をあげたからでないと
おかしいわけです。

「資格をとったから給料上げて欲しい。」と
言われる社員さんは多いですけど、
本当は、その資格を生かしてたくさんの結果に
貢献したからでないとおかしいわけです。

こういうと利益をあげたら
さもそれが自分一人だけの力で結果を出したと
大きな勘違いをする社員が生まれそうで
危険ですから注意は必要なのですが(笑)、

でも生計の手段として
その仕事をしているのなら
ここがズレてしまったときに
問題が起こる原因になるのではないでしょうか?

逆を言えば、きちんと利益をあげたときには
ちゃんと評価はしないといけないのも大切で、
その評価がお金にも 言葉にも 態度にも
表れなかったら辛いものがあります。

一番実績のある営業マンが管理職になって
チーム全体の実績を上げたとしても
個人的な成績が下がったら
「どうして若い奴に負けるんだ?」と
そこを責める経営者や上司って
案外、多くはないですか?

でもそれを言われたらそもそも
管理職なんてする意味もなくなって
やる気がなくなる人が多く、
実際退職される方の理由に多いので
評価する人は気をつけて欲しいですね。

話は戻ります。
プロなら長期的な展望はあるでしょうが、
負けてもお客様にその試合で
満足を与えられなかったらダメですね。
私ならせっかく観に来れた試合が
贔屓チームの捨て試合だったらガッカリ。
もう観にいくのが面倒になってしまいます。

(そんなことがあってもそれを許す
盲目的なファンが多いから、
どんなときでもチヤホヤするから
私の贔屓である某関西の球団は
全然、強くなりきれないわけです(笑)。
でも、お客様はたくさん来るから
結果、ある意味プロとしては正しいわけで、
その球団の某オーナーが
優勝争いはして欲しいけど万年2位でいい。
儲かって給料は上げなくていいからと
言ってたことあります。
なかなかコクのある意見です(笑)。)

勝ち負けにこだわるのはアマチュアで
お客様の満足にこだわるのがプロ。

となればファンサービスもプロの条件。

「俺は試合で結果さえだせば
そんなファンサービスなんていらないんだ。」
とか言っていると
「仕事さえしたら愛想なんていらない。」
なんて言って、どこかに消えていった
料理人や職人になってしまいます。

お客様を呼べること
お客様が満足することこそが
プロの評価とするならば、
自分が取り組むべきことはなんなのか?

もう一度よく考えてみないといけない
大事な自問自答になっていくわけです。


(負けても人気の下がらない選手を
しっかり評価することって
本当、大事ですよね・・・・・・。)

ゲーム

さて、今日から新学期です。
進級した娘達は元気に学校へ行きました。
私も改めて頑張りたいと思います。

我が家は共働きです。
なので娘達が、
春休み等の長期休業の際は、
夫婦のどちらかが都合をつけて時間を作り、
家事や育児をすることになります。

どうしても都合があわないときは
実家にお願いしていますが、
極力、夫婦で何とかしている状況です。

炊事、洗濯、育児をしていても
もちろん仕事もあるわけで
それだけってわけにもいきません。

今でこそ夫婦で家事に取り組むような
そんな価値感の時代になってきましたが、
ついこの間まで共働きとはいえ
家のことは奥さんが90%以上されていた
そんな家が多かったわけで
本当、そんな奥さんには頭が下がる思いです。

なので、私が当番のときは
朝ご飯作って、嫁の弁当を作ってます。
(これは結婚してからずっとです(笑)。)
朝、7時から洗濯機を2~3回回してます。

スーパーに買い物も行きますし、
晩御飯づくりや洗い物して、
娘たちと洗濯物たたんだりもしています。

よく大変ですねと言われますが、
結構、楽しんでやってます。
というのも、こんな表現が
いいのかわかりませんが、
家事はゲームだと思ってやっています。

きっかけはずいぶん昔に
奥さんと話した些細な会話からでした。

奥さんは今でもかなり物知りです。
私も自分で物知りだと思っていますが、
ジャンルがサブカルや音楽、野球と
かなり偏っていて全然自慢になりません(笑)。

奥さんは歴史や絵画など
王道の物知りなので
今でもわからないことはよく聞きます。

そんな奥さんは子どもの頃、
勉強がとてもできた女の子だったようです。
本人曰く、勉強はそれなりに出来たけど
その分、運動は全くダメで
運動神経がいい子が羨ましかったみたい。
私は運動できたけど勉強は・・・。

そんな奥さんに
「どうして勉強ができたの?」って聞いたら
こんな風に答えてくれました。

「勉強はゲームみたいなものやから。
公式覚えたり、単語覚えたら
絶対に答が見つかるから。
そのぶん、仕事のほうが大変。
答すらないこともあるから本当難しい。」

そんな話でした。
聞いててめっちゃ納得しました。
そして、この考えを10代のとき知っていたら
もうちょっと勉強したかもしれません(笑)。

それからは私もいろんなことは
ゲームだと思う気持ちが大きくなり、
そう思い出したらしんどい事や
面倒くさい事が面白くなってきました。

料理に関しては私は得意料理はありません。
冷蔵庫を開けて中にあるもので
何をどうするかを組み立てて作るゲームを
していると思い出し始めました。

お弁当ならいかに野菜を入れるか
いかに彩りよく盛り付けるか
賞味期限を考慮しながら
どんな材料で作っていくのか
そんなゲームのように感じ始めました。


(しまった、1年前に切れてた・・・)

晩御飯なら
メイン、サブ、小鉢、味噌汁の品数を
どういう順番で、どういう手順で作ったら
19時30分にちょうど全品できるか
そんなパズルを埋めていくようなゲームだと
思って調理するようになりました。

洗濯もこれだけ一気に洗濯したら
どれだけちゃんとその日で干せるのか、
昨日は雨で室内干ししてる洗濯物が
かなり残っていることを踏まえたら
どれくらいしたらいいのかを
考えるゲームだと思い出したら

あら不思議、あれだけ学生時代から
イヤだった洗濯がちょっと楽しいものに
変わっていきました。

そんなこと思うようになってから
ずいぶん取り組み方や考え方が
私も変わってきたように思います。

ただ、仕事については奥さんがいうように
ゲームって言うわけもいきません。
イレギュラーなことも起きるし、
人間関係の調整やムダ足も多々起こります。

仕事こそ効率化を望みがちですが、
それが損得勘定に直結すると
長い目で見て、いい結果にはならない。
私はそんな価値感でいます。

ただ、大きな視野は忘れずにいますが、
まずは目の前の仕事から
一生懸命やっていきたいと思っています。

だから多少のイレギュラーや遠回りは
仕事ではいちいち気にせずにやることが
大事だと思っています。

でも家事では、賞味期限切れや夕立ちなどは
とてもダメージが大きいので
ゲーム感覚で乗り越えて行きたいです(笑)♪

日常は、バランス感覚が問われる
人生のゲームとも思いつつ
今日も元気に過ごしていきます。

「風姿花伝」

ショーケンこと萩原健一さんが
亡くなられましたね。
数年前から闘病されてたようで驚きました。

華と色気のあるカッコいい方でした。
尖った感じは無くなりませんでしたが、
いい意味で枯れてきた感じも
とてもカッコよかったです。
残念ですがご冥福を心よりお祈りします。

ショーケンのニュースを聞いたとき
先日、読んだ本の内容がよぎりました。

その本のタイトルは「風姿花伝」
能で有名な世阿弥が書いた本です。
芸能論と言う名の人生論が書かれていて、
ハッとすることが多くてとても面白い。

普段、古典を読むこともないのですが、
一気に読んでしまいました。

世阿弥は7つの時期に分けて
その時代において大事なことを書いています。

その7つの時期とは
「7歳」「12~3歳」「17~8歳」
「24~5歳」「34~5歳」
「44~5歳」最後に「50有余歳」

「7歳」といえば今で言う小1の頃は、
ともかく叱らず、基礎をみっちりやって
しかも子どもが勝手自在にやるのをいつも
「ああ、上手上手、それでいいよ。」とでも
褒めて教えることを言われています。

褒めて教えるのが上達の近道であって、
叱って教えるのは効果が薄い。
そんなことを書かれていました。

「12~3歳」の頃は、
表面的人気に応えて華やかな芸を舞台で
披露しつつも、稽古は稽古で
ひたすら基礎の技術を大切に練習すること、
若い頃にどれだけ基礎的な訓練をしたか、
それが人の一生を左右する。

「17~8歳」の頃は、
能を演じる際、変声期をどう乗り越えるか
じっと耐えて、諦めず練習することが大事。
ただそれは根性論で解決できるのではない。

「24~5歳」の頃は、
実力以上に評価されがちで
慢心の虫に取り付かれやすく、
10年早いことをこれ見よがしにやりだす。
ただ心底立派な心がけを持った人であれば、
修練というものはすればするほど
また一層に己の欠点未熟に思いが至り、
更に一段の修練を積む。
それが一生の芸能の分かれ道。

「34~5歳」の頃は、
この頃までに「真実の花」
つまりは芸を極めた者は、
40歳以降になって力が衰えたとしても
別の味わいが出てくるので
衰えたようには見られないが、
真実の花を会得していない二流の者は、
この力の衰えが如実に芸にでてしまい、
急速に見どころが無くなっていく。
その衰えを補って余りある深い芸は
若いうちに勇猛努力して
仕込んでおかなくては取り返しがつかない。

「44~5歳」の頃は、
大切なことは良い助演者を持つこと。
本当の名手ならまだ見どころ魅力があり、
失せないで残っている花こそが本当の花。
老害という言葉があるとすれば、
年齢を認識せずに若いものと同じつもりで
年寄りの冷や水を好んだり、
後進に道を譲らずしていつまでも
高位に留まろうとする人を言っている。

「50有余歳」の頃は、
「麒麟も老いては駑馬に劣る」
どんなに優れた才能を持った人でも
歳を取って衰えたら
平凡な人にも及ばなくなるものである。
ただ、奥底深く会得したものであれば、
見どころが少なくなっても
「花」は残っている。

このようなことを述べられています。

まぁ、ぐうの音も出ないことの連発で
読んでてもっと若いときに読みたかったと
思った次第です(笑)。

時代や価値観が変わり
寿命も大きく変わった現在ではもう少し
年齢の枠も変わっているようにも思いますが、
現在46歳の私にとっては
「34~5歳」~「44~5歳」の時代に
生きているかと思います。

「真実の花」を手にしていないことを
今更どうすることもできませんが(苦笑)、
初心忘れずことなく勉強を辞めないで
次の世代へ伝えられることは伝えること。
そのことは丁寧にやっていくことが
今の私の年齢では大事なんだと思い、
実行していけたらと思います。


(キンモクセイの花言葉は真実)

世阿弥はこうも言われています。

「若い修行時代は夢中に稽古を過ごす、
そして壮年に名声を得たとしても、
もっと肝心なのは、いかにして引退し
後進に道を譲るかというその潔き進退が
大事でそれができぬものが凡人である。
老害によって晩節を汚した人は少なくない。」

そして、
「見事に潔く後進に道を譲り、
教えるべきことは教え、
そうして最後の最後まで元気に力を尽くして、
忽然として世を去る。
これがまさにこうありたいという辞世の姿。」

そう述べているのです。

自分が世阿弥のような人間であるとも
思っていませんが、
一人の人間としてカッコよく生きたいとは
思っています。

「上手は下手の手本 下手は上手の手本」

ちょっと上の地位になったりすると、
もうすぐに慢心して教訓をたれたがったり、
部下を見下したりする輩が多いのだが、
それは結局その人の能力の行き止まりだと
言うことであるとも世阿弥は言っています。

自分の考えが正解かどうかではなく、
自分の考えがどれだけ相手より
正しいと思わせられるかが
対人関係や競合の際には重要なことには
自分なりには整理できています。

でも、日常の生活の中では
自分が言ってることは全て正解なんだと
さも神にでもなったかのような人にも
よく出会うことがあり、
なんか違和感を感じることも多いです。

と言っても、生き様や価値感は
人それぞれですので、
自分は丁寧、謙虚で地に足がついた人生を
存分に満喫できるようにしたいと
改めて思いました。

こんな生き方が自分にとっては
カッコいい生き方です。

追伸

ネィティブアメリカンの教えで大好きな言葉

「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って
あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って
周りの人が泣くような人生をおくりなさい。」

これが最高の人生ですね。

(文中の世阿弥の言葉は
林望さんの「すらすら読める風姿花伝」から
抜粋させて頂きました。)

価値感が変わるとき

イチロー選手が引退を発表されました。
本音を言えば、最後は日本に
帰ってきて欲しかった気もしますが、
本当にお疲れ様ででした。

1994年に颯爽と現れて
野球ファンでなくとも魅せられました。
まぁ私は当時、野球大好きだったので
目が離せませんでしたが(笑)。

210本安打を打ったシーズン、
まだ世間がそこまで騒いでなかった頃
姫路球場であった公式戦観に行って
イチロー選手を初めて見ました。

華奢な選手だなと思いつつ観戦、
確か4安打して「なんじゃこの選手?」と
思ったことがありました。
今となっては、貴重な機会でしたね。

ちなみに大学4年だった1995年
日本シリーズのチケットを徹夜で並んで購入。
第6戦目神戸グリーンスタジアム戦を手にするも
4勝1敗でヤクルトが勝ち、払い戻し。
今となってはいい思い出です(笑)。

そんなイチロー選手のことは
今更ここで私が語らなくとも
皆さんご存知なことが多いでしょうが、
強いて語るとすれば、
イチロー選手が出てきたときから
ずっとスゴイなと思っていたことが
私にも2つあります。

通算案打数やタイトル歴などの
数字、実績はもちろんですが、
なんといっても私はイチロー選手が
価値感を変えたことがスゴイと思っています。

1つ目は、なんといっても
打率ではなく安打数にこだわる姿勢。

それまではそんなこと考えていた人、
プロならさておき素人なんて
誰もが考えていなかったと思います。

それまでの価値観は
あくまで打率であり、本塁打数でした。

当時は130試合制。
130試合なら規定打席は、
所属球団試合数×3.1なので403打席。

打率3割を一流とするなら
121本安打すればOKなわけで、
概ね年間135本~150本も打てば
打率で換算してもその安打数は
首位打者クラスの数字となります。

打率で争うから敬遠合戦なんかもあり
なんか見てて釈然としないこともありました。

そこまでしても獲る価値が
タイトルにはあるといった
落合さんのような考えもありますが、
それは個々の価値感。

なんか正々堂々としないあたりに
嫌な感じがしたのも当時は
年齢も若い分だけ結構ありました。

そこにきてイチロー選手は
安打数にこだわりました。

そういわれたら1年を通して
首位打者は獲得しても
年間安打数が140本の選手と
年間安打数が210本の選手は
どっちが貢献度が高いかと言われたら
後者ですよね。

今となっては安打数もタイトルになった時代。
安打数もこだわる選手が増えましたが、
あの頃はあくまで打率主義。

そう思ったら20歳の若者が
それまでの価値感をひっくり返したわけで
その着眼点というかポイントと言うか
本当にスゴイなと思うわけです。

2つ目は、
この近代野球の時代においては
守備においても捕手~二遊間~中堅手の
センターラインはもちろんとしても
いかにして進塁させないかといった面でも
いかにライトのポジションの重要性が
高いかはわかる話ですが、

当時はレフトとライトの守備は
重要視されていませんでしたし、
草野球においては、
めったに球が飛んでこないライトは
一番、下手っぴが守るポジション。

ライパチなんて言葉もありました(笑)。

そんな誰もがやりたくないライトが
イチロー選手の登場後は憧れのポジションに。

守備範囲、俊足、強肩。
全て兼ね添えた身体能力の高い選手こそが
守るポジションに変わっていきました。

これも一例でしょうが、
「打率より安打数」と「ライトの重要性」

この2点を素人にでもわかる形で
価値感を変えてくれたことが
イチロー選手を見てて、
本当スゴイなと思ったことです。

カリスマとかスーパースターの登場とは、
それまでの考え方を根底からひっくり返し
新しい価値感を気づかせてくれることだと
私は思います。

長嶋茂雄さんしかり、
アントニオ猪木さんしかり、
志村けんさんしかり・・・。
(ちなみにこの3人、誕生日が一緒・・・)


(ちなみにこの人も同じ2月20日生まれ)

私が以前いた住宅業界も
営業マンの評価は棟数主義でしたが、
今は粗利獲得額に変わってきたように思います。

ネットでの評価を見たらよくわかりますが、
飲食業界も
お医者さんも
味さえよければいい、
腕さえよければいいから
お店の空気感や
相手を労える言葉がけなどのウエイトが
大きくなってきているように思います。
(もちろん技術はあった前提ですけど)

どんな業界もカリスマの登場などの
きっかけだけでなく、
日々、価値感は変わっているわけで
その変化には対応できないと
続けていくのは難しいわけです。

聞いた話では、
何百年と続いている和菓子の老舗でも
味は変わらないものではなく、
実は味は少しづつ時代の好みに合せて
変わっているのだそうです。

今までの成功例に固執して
頑なにやり方を変えない人が
実はその組織においてとても問題児なのは
岡目八目、いつも感じます。

自分自身もそうならないように
戒めて行動したいと思います。

例えば、もうすぐ始まる「働き方改革」
これも今までの古い人間の考えからすれば
私も含めて、なかなか
納得のいくものでもない部分も多々あります。
それをどういった形で
受け取り変えていくのか
これからの価値感にどう寄り添うのか
企業にとっても大きな区切りと思います。

これからの価値観が
若者がチャレンジすることから逃げる
言い訳に利用されるのではなく、
若者が正しくチャレンジできるチャンスに
利用できるものになるようになるように
我々も正しく運営することが大事。

今、思えばパワハラなんてものは
無いほうがいいに決まっています。

これまでもアメとムチを
上手に使い分けてくれたら
まだ耐えれる部分もありましたが、
アメはなくてムチだけでは、
心は磨り減っていくのも事実なわけです。

そんな甘いアメもこれからは
そんなに作れないでしょうから
やっぱり価値観の変化には対応したいですね。

そんな価値感の変化の大切さに
気づかせてくれるきっかけをくれたのが
野球界ではイチロー選手でした。

そんな大きなことでなくてもいいので
私達もそんなきっかけに
気づいていきたいです。

そんな瞬間をきっかけだと
ちゃんと気づけるのも
日々、安定した毎日を過ごしていけないと
目の前に現れても気づくことができません。

となったら今の時代、
働き方改革といった価値感の変化は
やっぱり大切な取り組みだと思うのです。

「人の値打ちと 煙草の味は 煙になって わかるもの」

3月になり少しずつ暖かくなってきました。
季節の変わり目か蕁麻疹がでて
皮膚科に通う森下です。

今月の7日で会社を設立して
なんとか1年経ちました。
なにかと気遣い、心配りを頂き
ありがとうございます。
また、この1年頑張っていきます。

今日、3月9日は思い入れのある日です。
9年前の今日が我が家の上棟予定日でした。

しかし、その2日前に
可愛がってくれていた母方の祖母が
96歳で亡くなり、
告別式が9日になりました。

母はおばあちゃんに気を遣うことなく
上棟を優先したらいいと言いましたが、
私自身がおばあちゃんと
きちんとお別れしたい気持ちが強く、
また3月なのにこの日は
雪が降ったこともあり上棟を1日延期。
おばあちゃんの告別式に
行ったのでありました。

(翌10日に実施した上棟。
夕方、餅まきもしました。)

最後の10年間ほどは痴呆になり
ほとんど会話もできませんでしたが、
とても可愛がってもらいました。

私だけでなく、たぶんみんな
可愛がってもらったのでしょうね。
告別式には娘である母や
叔父さんたちはもちろんのこと
ほとんどの孫たちが帰ってきて
おばあちゃんを見送ったのでありました。

近隣はもちろん、
遠方の方や懐かしい方も
たくさんの方が参列してくださりました。

そして子、孫はみんな大泣きでした。

普通のおばあちゃんだったのに
こんなに多くの人から愛されて
見送られているのを見て
孫としてなんだか胸が熱くなりました。
そして嬉しく思いました。

私が都都逸(どどいつ)で好きな言葉に
「人の値打ちと煙草の味は
 煙になってわかるもの。」
というのがあります。

死んでから値打ちがついても仕方ないと
言う人もいるでしょうが、
その人の値打ちはその人のためでなく
残された家族や関係者のための
ものなんじゃないかな?と思います。

それが子や孫なら
「あの人から産まれてきた、
あの人に育ててもらった。」
そのことを誇りに思わせることが
残された人にできる
最期の贈り物のような気がします。

(昔、これまた可愛がってくれた
近所のおじさんの告別式に参列したとき
娘さん3人が
「お父さん、ありがとう。ありがとう。」
って言いながら
棺に花をいれてるのを見たとき
「おっちゃん、よかったな。
ねえちゃん、よかったな。」って
心から思いました。
私が死んだときも娘達がそうしてくれたら
私自身も娘達も本当にいいなと思ってます。

そのためには日々の積み重ねですね。)

予定ではまだまだ先の話ですが(笑)、
先で自分が煙になったときに
「オマエらの父ちゃん、アホやったわ。」と
周りの人から娘達が言われぬように
「オマエらの父ちゃん、アホやったけど
ええ男やったぞ。」と言われるように・・・
(どの道、アホなのは変わらないんやな・・・。)

慢心することなく
勘違いすることなく
地に足をつけて生きたいと思います。

都都逸も過去、
一度しか聴いたことがありませんが
機会があったら聴いてみたいですね。

おそらく一番有名な都都逸は
学生時代、社会で習った
「散切り頭を叩いてみれば
 文明開化の音がする。」ですね。

「恋に焦がれて鳴く蝉よりも
 鳴かぬ蛍が身を焦がす。」とか
「立てば芍薬 座れば牡丹
 歩く姿は百合の花」も有名ですが

有名でなおかつ一番耳にしたことある
都都逸はこの方のこれかもしれませんね。

「一度でいいから見てみたい
女房がへそくり 隠すとこ。

桂歌丸です・・・・・・。」

お後がよろしいようで。