「何事も呼び名がついてしまうと
人々は強く意識するようになる。」
落合博満さんの本を読んでて
何気に胸に引っかかった言葉。
名前が定義されることで
曖昧なものが明確になり
いいこともあれば悪いこともある。
病気なんかがその最たるもの。
呼び名ができることで自覚もできるけど
おおげさにしなくていいときでも
体が悪いことにされてしまうのも
どうなんだろう?と思います。
外国人に「肩こり」の人がいないと
聞いたことがあります。
でもこれは「肩こり」が
日本人特有の症状でなく
海外には「肩こり」に変わる言葉がないので
自覚できないからだそう。
日本に来て「肩こり」という言葉の存在を知り
「肩こり」の症状を認識した時に
外国人の中にも「肩こり」に悩まされる人が
生まれてくるようで、
なんとも興味深い面白い話。
日々の生活でもそうですよね。
呼び名ができることで早期発見ができ
自己確認ができることもありますが、
わざわざ呼び名をつけることで
不安にさせて何かを売り込んでくるような
悪意ある人も結構いますから・・・。
またその相手が善意と思いこんで
断っても売り込んでくるときに
一層めんどくさいことにもなりがち(苦笑)。
(親戚のおばちゃんに
こんな人いたら困りませんか?といえば
ニュアンスが伝わりますかね(笑)?)
例えば、〇〇ハラスメントという呼び名も
悪意ある人間から身を守る為のものや
ルール違反する人への対抗であればいいですが、
果たさなければいけない責任を
果たせないときの正当化や言い訳になると
言葉だけが独り歩きして
ややこしい感情論だけになるような気もします。
とは言え、定義やルールは言葉にしないと
お互いが意味を意識しにくいので
きちんとしたほうがいいと思いますが、
誰かだけが得をするような
偏ったものにはならないようには
気をつけてやっていきたいものですね。